協会誌「大地」No49

地質基礎工業(株)技術本部工事部次長 高萩 真治

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みちのくだより福島
定年を迎えての30年雑感

小生は昭和23年10月生まれの団塊世代の一員です。昭和43年に普通高校を卒業し、当時は建築家になろうと東京の国立・私立大学を受験したが、遠回りし結局、滑り止めに受験した私立の土木工学を選択しました。

その後の、自分の生き方を振り返って見て性格のラフさから、土木のほうが合っていたのかなと思うこの頃です。

さて、私の歩みをもう少し、紹介します。私の高校卒業当時は、学生の時事意識が盛んな時で、ベトナム戦争直後で、東大の入学試験が1年中止になり、大学解体等が叫ばれていた時代でした。また、大学に入学したころは、1970年の第二次日米安全保障条約等、東京も割合、落ち着かないで騒がしく、進級試験も全科目レポート試験の年もありました。あまり勉強もしないで、大学を卒業し神奈川県の建設会社に就職しました。

その会社には1年ほどおりましたが、実家の都合で、翌年、いわき市の地元建設会社に就職し10年ほど在籍しました。この間、専門工事として、河川改良、道路改良、ほ場整備事業等を現場代理人・主任技術者として担当し、過ごしてまいりました。

その後、構造物を作る為の基礎的条件となる背景としての土質・地質を知ろうと思い、当社に入り20年ほど在籍し、10月に定年を迎えました。この間の仕事の内容は工事部に在籍し、主に地すべり対策工事、さく井工事の施工関係に携わってまいりました。11月からは嘱託として在籍しております。

以上、簡単ではありますが、私の技術屋としての経歴を紹介させていただきました。

この30年間、施工技術者として、特に印象に残った現場を2、3紹介したいと思います。

前会社の10年間では県の工事で、S62年のほ場整備事業と河川局部改良工事が輻輳した現場での出来事でした。その現場での主な工事内容は、6haの田面整地後、購入盛土仕上げ7000m3、関連した暫定堤防となる掘り込み河道掘削200mの工事です。

当時としては周辺のボーリング地質調査が2箇所なされており、その結果、1箇所は湿地帯で軟弱地盤層が最深部までピート層が17mもありました。田面整地に当っては当時、東北地方で3台しかないといわれた11t超々湿地ブルドーザで田面整地完了後、仕上げの田面盛土を購入土、平均で50cmを施工しました。苦心して慎重に施工していったが、施工中に浅田面一枚半で一部盤膨れ、計画高さより50〜70cm盛上がり、いろいろな方法を試みましたが、その当時竣功検査までに解決収束できませんでした。

また、河道掘り込み掘削による暫定堤防の仕上げも、逆に20〜30cmの沈下現象を起し、完全な形では竣功できなかった。当時、県に申し入れ協議打合せし、落ち着くのを待って1年後にようやく手直し完成しました。

夢中になって施工しましたが、技術者としてのほろ苦い印象深い現場でした。

後の20年間では、H6年地すべり対策事業工事でアンカー工と野外水抜きボーリング工で、仮設場内運搬工法が縦引き索道(2.9t吊り、L=90m)1本で施工し、高低差(1.5〜2.0m)のある等間隔(5m)の水抜きボーリング(8本、L=40m)施工の際、ボーリング足場組立・横断方向のボーリング機械移動が人力手引きとなり、大変苦労した現場施工となった。結果、工程の遅れを生じさせ、発注者に工期延長願い2ヶ月を提出し、工程の読み違いをし、工事を完成させた。技術者として恥ずかしい思いをした。

もう一つは、H9年、林道災害工事現場で、現場打吹付法枠(500*500*500)の法枠にアンカー工5段72本(仮設は逆巻き・足場組1600空m3)を打設し、法面及び枠内厚層吹付を施工した。被災面積は0.2haでしたが、斜面傾斜が厳しく、頂部までの資機材運搬が2条敷モノレール(2.9t吊り、L=70m)で施工したが、当時モノレールの分岐がなく、上げた資機材等を頂部から下に向かって、ほとんど手卸しになり、頑張ってやっても現場が進まず、工期が切れる早朝に竣功写真を取り、その日の9:00に竣功検査を受検した苦い思い出がありました。

以上、過去の特に印象に残った現場について概説してきましたが、土いじりの難しさ、仮設工法の良し悪し、工程管理といずれも技術の基本をなすものです。こういった過去の技術経験を活かし、後進に助言をしながら過ごしております。

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