仙台文学館  村上 佳子
55.文学の記憶がたたずむ街から

 仙台文学館は、市中心部よりやや北部、台原森林公園に隣接する広やかな敷地にあり、文学の博物館として、明治以降の仙台ゆかりの文学を紹介しています。1999年3月の開館から7年がたち、人の成長になぞらえれば、やっとよちよち歩きを始めたところでしょうか。


仙台文学館全景 (仙台市青葉区北根2丁目)

 「学都」の名の通り仙台には、明治期、旧制二高や東北帝大、東北学院などが創設され、学生として、あるいは教員として、多くの若者がこの地で青春の一時期を過ごしました。新しい学問を修め、羽ばたいていく者、未知の思想や文化をもたらす者・・・様々な出会いがあり、そこに文学作品が紡ぎだされていきました。

 島崎藤村が、東北学院の英語と作文の教師として赴任したのは、明治29年、24歳の時でした。失恋や友の自殺といった出来事を経て都落ちともいえる心境でしたが、仙台での穏やかな暮らしの中で、その傷ついた心は癒され創作への情熱を高めていきました。仙台駅の東にあった下宿の部屋で、荒浜の海鳴りを聞きながら書いたという数々の詩は、後に一冊の詩集にまとめられます。

心の宿の宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ
(草枕)

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり
(初恋)

 これらの詩が収められた『若菜集』は、日本詩歌の歴史に残る名作といえるでしょう。傷心のうちにも若き野心を秘めていた青年・藤村は、やがて小説の道を歩み日本を代表する作家として大成します。仙台の思い出は、藤村の胸に深く刻まれており、「そこで送った一年は自分の生涯の中でも最も忘れがたい月日の一つであり、その感銘は長く自分の内に続いている。」との文章も書き残しています。


島崎藤村『若菜集』 (明治30年8月 春陽堂)

 また、「荒城の月」で知られる詩人・土井晩翠は、仙台に生まれその生涯のほとんどをこの地で過ごしました。旧制二高の名物教授としても親しまれ、今も晩翠忌の催しには、晩翠先生を慕う方々が文学館に集います。

 他にも、留学生として仙台に学び、医学から文学への大転換を志した魯迅、阿部次郎をはじめとする東北大学の教授陣たちもいます。

 このように、古くは歌枕の地、藩学の地としての歴史を持つ宮城・仙台は、多くの文学者を受け入れ、作品を生み出す力を与えてきた街です。

 当館は、そんな文学者たちの記憶をたどりながら、訪れる方々にささやかな出会いと、ひとときの心の休息をもたらす事ができたら・・・と願っています。

 ところで、文学作品の中で思わぬ仙台とのゆかりに出会うことがあります。そんな中からひとつ、向田邦子の「父の詫び状」をご紹介してみたいと思います。「おかみさーん、時間ですよ!」という掛け声とともに始まるドラマ「時間ですよ」をご記憶の方もいらっしゃることと思いますが、向田邦子は、「七人の孫」「寺内貫太郎一家」「だいこんの花」「阿修羅のごとく」など多くのドラマや映画を世に送り出した売れっ子の放送作家でした。

 やがて、短編小説「かわうそ」「犬小屋」で直木賞を受賞し、小説家としても活躍し始めますが、昭和55 年、最も充実していた時期に、航空機事故により51年の生涯を終えることになります。

 「父の詫び状」は、40代の後半で乳がんの手術をした後、「平凡な一家族の、とりとめない話」を「誰に宛てるともつかない、のんきな遺言状」のつもりで書いたというエッセイ集の表題作となった作品です。

 父の仕事柄、転勤が多かった向田家は各地を転居し、昭和22年から25年にかけては仙台の琵琶首丁(現在の青葉区歌壇)にその住まいがありました。その頃彼女は東京の大学に学んでいましたので、夏冬の休みのたびに仙台に帰省する暮らしでした。親元にいる間は、向田家の長女に徹し、率先して家の手伝いをし、妹弟の相手をするしっかり者であったそうです。「父の詫び状」は、この仙台の家に帰省していた或る冬の朝の出来事を綴ったものです。


向田邦子『父の詫び状』 (昭和53年11月 文芸春秋)

 向田家の父は保険会社の支店長を勤めていました。代理店や外交員の社員たちも多く、仕事の後、支店長の家に駆けつけて酒席になることもしばしばであったといいます。昨今は珍しくなりましたが、かつては、上司の家に集った部下を酒肴でもてなすというのは、よくある光景だったでしょう。仕事の労をねぎらい、夜遅くまでつづく語らいに、皆、気持ちもゆるみ、中にはつい飲みすぎていく輩もいたのは容易に想像できます。 仙台の冬の寒さはなかなか厳しく、東京で暮らす彼女にはひとしおであったと思われます。

  帰省していた真冬のある朝、玄関がやけに寒く、母親がガラス戸を開け放して敷居に湯をかけながら何やら作業をしていました。よく見ると、昨夜の酔客が、明け方の帰り際に粗相した吐しゃ物が、敷居いっぱいに凍りついていたのでした。「あたしがするから」と、母親をつきとばすように押しのけて、敷居につまった汚物を爪楊枝で掘り出し始めた彼女は、保険会社の支店長の家族とは、こんなことまでしなければならないのかと、黙って働く母親にも、させている父親にも腹を立てていました。

 やがて後ろの上がりかまちに立つ父親の姿に気づきます。寝巻きに裸足で新聞を持ち、娘が手を動かすのを見ているのです。ねぎらいの言葉を期待するも、無言の父は、娘の仕事が終わるまで、吹きさらしの玄関にそのままで立ち続けているだけでした。

 数日後の東京に戻る日、母親から手渡された一学期分の小遣いを、多少の期待を込めて数えてみますが、決まった額が入っているのみ。そして父親は、仏頂面で「じゃあ」と言っただけで、いつもの通り仙台駅で娘を見送るのでした。

 ところが、東京に帰った彼女のもとには、父親からの手紙が届いていました。いつもより少し改まった文面でしっかり勉強するようにと書かれていますが、その終わりに、

「此の度は格別の御働き」

という一行があり、そこにだけ朱筆で傍線がつけられていました。それが「父の詫び状」だったのです。

 向田家の父親は、学歴があったわけではありませんが、サラリーマンとして人並み以上の出世をとげた人物とうかがえます。上司に仕え、部下を気遣い、人に弱みを見せずにやせ我慢を続け、家族の前では威厳たっぷり、という昔ながらのがんこ親父そのものの姿は、彼女のホームドラマの登場人物にも投影されているようです。そして、その目線の先には、人間同士が互いにかかわりながら生きることへの限りない愛情を感じるのは、私だけではないでしょう。

 向田邦子の作品には、「父の詫び状」のほかにも仙台での思い出が登場するエッセイがあります。

 前述の琵琶首丁の家への引越しを前に、ひとりその家で夜を過ごすことになった状況が綴られた「お化け」でも、無口で不器用な父親と、娘を気遣う母親のはからいが語られています。「父の詫び状」のラストに仙台駅に娘を見送りに行く姿がえがかれていますが、常に誰よりも早く、一番に駅に着かなければ気がすまなかった父親のことを書かれたのが「一番病」です。どんな暑い日でも、寒い朝でも、朝一番に駅に行き、時にはまだ施錠されている扉を無理やり宿直の駅員に開けさせる強引さ。せっかちな親をもつと、娘は肩身の狭い思いをすると、若き日の一場面を苦笑いしながら語る彼女は、人一倍の愛情を注がれて育った人なのでしょう。

 また、仙台弁についてのお話もあります。

 帰省していた折、父親の会社関係の「佐藤さん」が訪ねてきた折に、言葉がよく聞き取れなくて、「砂糖売り」の人と早合点して追い返してしまったとのエピソード、彼女自身もなかなかのせっかちぶりを発揮していたようです。

 さらに、妹の英語のリーダーの発音が、東北弁になっていることを気にする場面があるエッセイ「クラシック」などもあります。

 当館では、平成16年の秋に、企画展「向田邦子の世界展〜そのまなざしの先に」を開催いたしました。その折には、向田邦子の生涯と作品、そしてそのライフスタイルを、魅力的な写真と、彼女の身の回りの品々によりご紹介することができました。

 向田作品のみならず、自分の日常にふと思い当るような作品に出会うと、時に文学は人生の実用書なのかもしれないと感じることがあります。


 貴重な文学資料を次ぎの世代に伝えるとともに、言葉が持つ豊かな世界を育み続けていく街でありたいと願いつつ、文学館の日々を送っています。

*「お化け」「一番病」は『霊長類ヒト科動物図鑑』(昭和56年9月文芸春秋)に、「クラシック」は『女の人差し指』(昭和57 年8月文芸春秋)に収録 されています。
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