(株)日さく仙台支店執行役員支店長

朝倉 孝夫

43.仙台在住25年


 この度広報委員長の金井氏から人物往来の執筆依頼を受け、未だ時間があるなと悠長に構えていたら締切り日が過ぎておりました。今慌ててパソコンに向かって、指を動かしている最中です。私は前任者杉松の本社転勤に伴い、昨年の1月1日から支店長の任に就いております。今日迄、会社では主にさく井関連の消化部門を担当していた都合上、皆様と親交を深める機会も皆無同様でした。今回良い機会を得ましたので、ここに自己紹介をさせて頂きます。

1.出生〜小学校時代(運動会のホープ)

 昭和25年12月21日に秋田市楢山明田というところで国鉄マンの長男として生まれる。この秋田駅の東南に位置する明田地区は当時私の家の後ろから一面に水田が広がり、北側の秋田大学に通じる農道(砂利道)が手形方面に通じているのみであった。又家の近くには標高差20m程度の「富士山」(ふじやまと言う)、太平川と山あり川ありの環境に恵まれた所であった。小学校時代は、このすばらしい環境の下での川泳ぎ、チャンバラ、スキー等の遊びの中で自然と体が鍛えられたせいか、小学校6 年時には、身長が165cmと竹の子のように育っていた。又野山を駆け回っていたせいか自然と脚力も養われ、町内の運動会での班別リレー大会では学年別の私のところで大差をつけて優勝していた。班は、東西2地区に分かれて一班20所帯で一地区15班位であったと記憶している。小学校の6年の時には、秋田市内の学校別リレー大会の選手に選ばれ第一走者としてスタートをきったが、結果は3位であった。今でもはっきりと覚えているが、町内のホープではあったが秋田市となると違うなと子供心で痛感したものである。

2.中学時代(マンモス中学校)

 戦後のベビーブームのピークを過ぎた我々の昭和25年生まれであるが、中学は一クラス50人で、一学年15教室位のマンモス校であった。入学と同時に得意であった陸上競技部に入ろうとしたが、「クラブなど入らずに勉強しろ!」この父親の一声に逆らえずに陸上は断念した。然しながら、勉学に励んだかと思えば結果は反対で、学校の教科書を広げたのは1学年の1学期のみであり、親の期待とは裏腹に母親の作った弁当を学校でただ食っては帰るという繰り返しであった。

 さすがに高校入試を控えた3年の夏頃からは受験勉強らしきものを始めたが、基礎が大事な数学では難儀したものである。優しい母親の夜食(うどん)を食べるのを楽しみに数ヶ月間頑張ったものであった。

3.大学時代

 大学は地元を選び、入学と同時に空手部に入部した。空手部を選んだ理由は、18歳から初めるスポーツとして他の者とのハンディのない競技を選んだ結果からである。入学当時はアジ演説、反戦デモ等の学生運動も盛んで、我が大学でも構内施設への過激派学生の立て籠もりやらあったが、早々に下火になったと記憶している。

 学業はそこそこにして空手の稽古と仲間との酒、学生生活はそんな毎日であった。就職を決めなければならなくなった4年生の春に、先輩から「日本鑿泉という会社は、水井戸掘削の分野では日本一だよ!」と言われ、初任給も当時良かったこともあり応募したら、面接試験のみで採用されました。諸先輩が活躍されていたこともあっての採用で、担当教授と先輩に感謝、感謝でした。

4.入社と初めての海外出向

 22年間生活した秋田を離れての勤務地は新潟支店で、新入社員歓迎会後間もなく温泉現場へ配属になり、以降2 年間は温泉と水井戸の現場で実際にボーリングマシンを操作しての現場経験を積ませて貰いました。そんな時海外出向の内示があり、勤務地は北イエメン共和国(現在のイエメン)との事。当社の本格的な海外事業進出のきっかけとなるプロジェクト第1号であった。アラビア半島の南端に位置する地での水井戸掘削事業で、HLL を主とした機材の他、綱堀り機械、ハンマー掘削機材等の掘削関連機材から運搬車輌、ユニットハウス、トラッククレーンまで持ち込んで始められたプロジェクトであった。この海外出向は、昭和50年春から昭和53年の春まで3年の期間であった。慣れない環境、経験の少ない大口径岩盤掘削技術又、異教徒である我々日本人がイスラム教徒の地に乗込んでの作業は予期せぬトラブルの連続であった。

 標高1500mでの大型車輌の走行は、オーバーヒートの続出、西部劇のシーンに良く見られる岩漠地帯走行での車輌故障、石灰岩・玄武岩等の掘進率の悪さと掘削障害等はまだしも、井戸掘削地である地方の集落に乗込んだ時の歓迎ムードに反して、予定深度掘削終了後に計画水量が確保されないと判断されて撤去作業に移行した時の自動小銃を突き付けられての阻止行動も何度かあった。長年の夢であった飲料水確保の可能性が消えた落胆から出た行動か、若かった当時、到底理解出来なかった彼らの行動であった。

 然したる楽しみとてなかったこの3年間、宿舎はさながらイエメン日さく分校であり、先輩諸氏から掘削技術に関する事は当然のこと、社会人としての常識等も教えて貰ったのが私にとって最大の収穫であった。

5.仙台支店開設に伴う転勤

 プロジェクトを終了して帰国から約2年後の昭和55年、仙台支店の開設に伴い仙台に転勤となった。利府に機材倉庫を設け、事務所は東仙台小鶴の通称利府街道に面した小さなビルであった。帰国後に結婚し、転勤のこの年3月には長女も誕生し、慌しい転勤であった。

6.仙台生活と海外出向

 仙台転勤後、特に秋田、新潟の冬とは違う穏やかな気候のせいか女房もすっかりこの地が気に入り、昭和63年には松陵に住居を構えて現在に至っています。

 この間、昭和57年春から昭和59年冬迄の2年半は北イエメン国へ、平成10年春から平成14年の春迄の4年間はアフリカのニジェールとウガンダへODA事業の一環としての地方給水事業に携わりました。

7.おわりに
 現在は会社事務所も南仙台に移転し、私は仙台市の北のはずれから南のはずれ迄バス、地下鉄、JR と乗り継いで片道1時間の通勤の毎日です。北イエメン出向中には長男も授かり、長女はもう社会人になっています。

  趣味についてですが、ゴルフは今までにプレーしたこともなく、最近は大型漁礁等での魚釣りと庭弄りを楽しみに休日を過ごしています。

 最近の会社業績は、公共事業の縮小に伴い売上高も減少傾向です。当社も大規模なリストラを実施し、その後の民受拡大策も少しずつ効果が現れ、民間受注については受注増の傾向です。現在は支店の責任者として営業、消化体制を確たるものにすることに専念しています。

 最後になりましたが、当社方面に来られる機会がありましたら皆様には是非立ち寄って頂いて情報交換等と思っております。以上宜しくお願い致します。
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